« 謹賀新年 | トップページ | ゆきいろ~空に六花の住む町~ レビュー »

2012/02/06

素晴らしき日々~不連続存在~ レビュー

-幸福に生きよ!をめぐる物語。 

 

 2012年に入ったということで、昨年末にクリアした素晴らしき日々のレビュー。発売が2010年3月なのでプレイするまで放置し過ぎだろうとも思えるが、2012年の年明け直前にクリア出来たことはある意味幸運だったのかもしれない。

 シナリオは6部構成。オールクリア30~40時間くらい?章によって雰囲気やシナリオ運びが大きく異なるのが非常に特徴的。しかし、物語は旋律でそれぞれが響き合って共鳴する、と公式ページにも書かれているように終わってから見ると纏まって見える不思議。一方で各シナリオの相性で、途中でやきもきすることも人によってはあるだろう。ある意味、この構成が素晴らしき日々の肝だと個人的には感じた。

 キャラはリメイク元の終ノ空よりも格段に可愛くなっている。実際、終ノ空(あと二重影)は、キャラはシナリオのおまけでしょ、というような印象があり、愛着がいまいち沸かなかったのであるが、素晴らしき日々はこの辺りの欠点を克服している。キャラの魅力がシナリオを牽引していると思えるくらいだ。特に三章のざくろシナリオなどは終ノ空と比べると一目瞭然で、キャラによってより不穏さ・不気味さ・悲痛さを引き立てるのに成功している。一部、シナリオの都合により空気化する娘達もいるが、百合もあり欝もあり、バラエティ豊かで良かったのではないかと。希実香ちゃんかわいい。羽咲ちゃんかわかわ。

 総合的に見ると、作り手の掌の上で存分に踊らされたというか、振り回されて少々疲れた部分もあったが、通しでとても面白くプレイ出来たように思う。

以下、ネタばれ雑感。プレイ済の人、ネタばれ気にしない人、非暴力ロボガンジーのみ閲覧推奨。終ノ空に寄りかかりまくっているのでこちらのネタばれも注意。

 

・多重人格のトリックについて

 素晴らしき日々をプレイして一杯食わされたと感じたのが、多重人格のトリックである。多重人格のトリックは別段珍しいものではなく、また同時期に発売されたゲームでも同じオチがあったことから、特に取り上げる必要もないように思える。が、単にトリックとしてというよりも、終ノ空から引き継いだ問題があり、それを巧く昇華する仕組みとして多重人格トリックがあったのではないかと、通しでプレイして感じた。だからこそ、自分は存分に踊らされたとのではないかと。

 まず、何故ここまで多重人格トリックに不意を突かれたと言うと、やはり終ノ空で同名のキャラクターがいて、彼らに対するイメージが既に固まってしまっていたからだと思われる。由岐姉は水上行人の女体化で、屋上で哲学書を読んでしまうようなナイスガイ(ナイスビューティー)で、卓司君は精神が反転して教祖化する救世主様、というようなそれぞれ独立のイメージが出来上がってしまっていた。更に、この二人は、終ノ空のラストシーンで、完全に決別する。だからこそ、由岐姉が卓司君の身体の中の一つの人格であると聞かされた時は驚いた。こう来たか、と。無論、それぞれ独立した人格でありキャラでもあるが、まさかあの二人が…という思いでいっぱいだった。

 そもそも、時々発作のように「スパイラルマタイ!」とネタで叫ばずにはいられない終ノ空スキーな自分にとっては、素晴らしき日々の展開は困惑の連続だった。思えば体験版のメタ的なテンプレ展開からしてそうだった。そして一章のラストの「幻想世界」というワードは、特に混乱させた。それは、終ノ空はあくまで「ここ」しか描かない、決して来世であったり平行世界であったりする「ここではないどこか」は描いて来なかった、だから素晴らしき日々もそうだろう、と思い込んでいたからだろう。だから、素晴らしき日々で「幻想世界」なるワードが出た瞬間に、どういうことなのだろうと大変訝しがった。続く二章でも、どこか終ノ空とは違う異質な感じ、超常的な他世界からの干渉やループを匂わせるような展開の予兆を、感じずにはいられなかった。

 そうして多重人格というネタばらしである。真相を知った時、はっとさせられた。トリックもさることながら、結局多重世界やループもののように思われていた謎の超常現象も、結局は三つの異なる人格が接触しつつ一つの光景と事件、「ここ」を視ているに過ぎないと分かったからだ。一つの光景を、複数の視点から描く、これは終ノ空のやり方と同じである。だからこそ、今までの懐疑していた部分が収束していくように、物凄いカタルシスが得られた。更に、この多重人格のトリックによって終ノ空以上に「私ってなんだろう」という問いにも深く切り込めている。一つの身体に三つの人格が宿る、という問題は結局「私」は何によって「私」なのか、それぞれの「私」はどのような存在なのか、「私」が世界と等しいのならば三人の魂が視る一つの光景は本当に一つの光景なのか、などなどより哲学的な問いを提起しやすくなっている。

 なので、各所でも言われている通り多重人格は精神疾患というよりは思考実験という意味合いで使われている。だが、それによって終ノ空をベースとしながら更に謎や問題を深めることに成功しているように感じられる。確かに、日常感覚から遠ざかるので歪さを伴うものではあるのだが、ここまで戦慄と驚きを与えてくれたこの多重人格トリックはその欠点を補うに余りある、と感じる。

 

・終ノ空Ⅱについて

 だが、はっとさせられた後で、じゃあ一章の「幻想世界」と呼ばれたものや各章のIFエンドはどういう位置づけになるんだろうと疑問が生ずる。どちらも、ここではないどこか、あったかもしれない未来、あり得たかもしれないもう一人の私を描いていることにはならないのか。そうした疑念を、一気に解決すると共に、意味不明な不可解な世界へ叩き落すエンドが「終ノ空Ⅱ」だろう。

 終ノ空は、ビジュアルファンブックですかぢ氏が語っているように、「ここ」以外は描かれなかった。一見、意味不明に思える電波なラストシーンも「ここ」以外のどこかではあり得ない。世界の果てには辿りつけない、外部など無く、辿り着いた瞬間にそこは内部になる、そうしていつまでも「ここ」は「ここ」である。そうした思考を可能とする為の極限的な何かが終ノ空であり、一見それが意味不明に見えても逆説的に当たり前だと思っている「ここ」を考えることに繋がっていく。平たく言ってしまえば、そんな構造を持つだろう。

 終ノ空Ⅱエンドも終ノ空の名を冠するだけあってどこまでも「ここ」を追い求める。そこで生まれた極限的な、キモい発想が「偏在転生」だろう。「私」が無限回転生し続けるというこの思想は、ぶっ飛びすぎていて滝に入水自殺したくなりそうになる。だが、この「偏在転生」によって一章の「幻想世界」もIFエンドも、「ここ」ではないどこかではなく、「私」が視た一つの光景、「ここ」とならざるを得ない。全ての存在が「私」である限り、「ここではないどこか」や「私ではない私」は想定出来ない。「一つの魂が視た、無限の光景」である。では、その無限に転生を続け、全ての存在者となり得る「私」とは何か、そもそも「ここ」はどこなのか、「今」はいつなのか、次々と問題が吹き出してくる。もうこうなってしまうとどうしようもない。そもそも、終ノ空がそうであったように、このエンドは答えや実証的なものを提示している訳ではなく、とにかくプレイヤーを懐疑と哲学の迷路へ叩き落そうとしているだけである。

 終ノ空の「ここ」とはどこか、「私」とは何かという謎は、多重人格という仕掛けを通し、終ノ空Ⅱに至って見事に昇華される。この観点から見る限りは、タイトルがストレートに「終ノ空Ⅱ」であっても問題はなかった。だが、そうではなかった。それが、もう一つの道「素晴らしき日々」であろう。

 

・素晴らしき日々について

 その終ノ空、終ノ空Ⅱへのカウンター、その問題への乗り越えとしての位置を持つのが素晴らしき日々エンドであろう。これはすかぢ氏が直接インタビューで語っているし、既に手垢が付くこと程語られてきた。ここでは、ちょいと私的な感想を述べるに留めておきたい。

 多重人格の仕組みを考えると、水上行人を受け継ぐ由岐姉と、救世主を受け継ぐ卓司君という宿命の二人に加えて、新たに悠木皆守が加えられている点が興味深い。彼こそが、素晴らしき日々エンドの担い手であり、別の道を示すキャラだからだ。特に根が熱血キャラというのは面白い。延々とクザーヌスやらシラノやらディキンソンやらを補助線にして語られてきた謎を、最期は拳のぶつかり合い(あと、羽咲ちゃんのお兄ちゃん好き好きパワー)で解決してしまうからだ。特に、一度敗北して夢の中で由岐姉と修行するシーンなどはまさにテンプレであり、思わず笑いが溢れる。「無意識を意識化することこそが武道の真髄だ!」、という理屈も、非常に少年漫画臭くて好きだ。だが、そんな彼だからこそ、終ノ空とは違った視点を開くことが出来たと言える。行人は卓司君を殴れなかったが、皆守は迷わず殴る。終ノ空を前にして立ち竦むことなく、進んでいける。そうして問いそのものを忘れることが出来る。要するに、妹は世界を救うのだろう。羽咲ちゃんかわかわ。

 一方で、この熱血的な展開に至る顛末が、前半と後半の温度差の問題にもなっている。だが、明らかに意図されたものだろう。ある意味、終ノ空の分水嶺とも言える。

 

・登れない坂道について

 ここまで何度終ノ空、終ノ空連呼して来たか分からないが、十年くらい連呼し続ける程度には思い入れのある作品である。電波ゲーとして名を馳せてきた終ノ空ではあるが、日常ふと思い至った感覚を思い出させてくれる作品でもあった。それが「登れない坂道」だろう。昔、子供の頃、町の外れは世界の果てだと思っていた、そんな感覚が例え今忘れてしまっていても誰にでもあるだろう。果てなんてなく、どこまでもどこまでも町が世界が続く、そんな事実を知った時何かが心から抜け落ちたように感じたことだろう。それで何故世界はあるのだろう、とか考えた筈だ。まさに、終ノ空のぶっ飛んだ問いかけは、その底でそんな素朴な感覚を思い出させてくれる。

 だからこそ、「登れない坂道」エンドで、坂道を登り切った先で向日葵を眺めるシーンは実に自然に胸に収まる。そんな素朴な問いかけで始まって紆余曲折を経た後に、素晴らしき日々を生きる。最終的に難解な答えなんて無い。素晴らしき日々は、終ノ空という作品との決別である、それも確かにそのように感じられるが、やはり潜在的に旧作の終ノ空もその射程を持っていたのではないか、そうでなければこの結末へは至れなかったのではないか、とも思う。

 1999年終末説も結局不発に終わり、今年は2012年終末説が控えているが、結局このような終末や不安は繰り返すものなのだろう。素晴らしき日々が終ノ空の乗り越えだとしても、やはり終ノ空Ⅱという不気味なものは残っている。全てそこで解決することはない。どこまでも終ノ空はついて来るし、終ノ空の中にも素晴らしき可能性がある。どこまでも坂の途中なのだろう。そんな素晴らしき作品であった。

|

« 謹賀新年 | トップページ | ゆきいろ~空に六花の住む町~ レビュー »

コメント

大変面白かったです。ちょっと読んじゃったのを惜しく感じてしまうくらいに。うー、やりたくなる。

投稿: 傘 | 2012/12/05 22:49

はじめまして、コメントどうもです。終ノ空や素晴らしき日は、夏が訪れる度に思い出してやりたくなりますねー。発売からだいぶ経つのに印象が薄れないのは作品の持つ懐の深さ故なのかもしれません。

投稿: ネ右 | 2012/12/06 00:38

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/85323/43646611

この記事へのトラックバック一覧です: 素晴らしき日々~不連続存在~ レビュー:

« 謹賀新年 | トップページ | ゆきいろ~空に六花の住む町~ レビュー »